詳細 | かわら版 | 衆議院議員 野田 よしひこ

かわら版 No.1381 『2つの記念日』

2023/10/23

  10月は私にとって忘れることのできない記念日が2つあります。


  1986(昭和61)年10月1日、私は初めて国鉄(現JR)津田沼駅北口に立ちました。友人が手書きしてくれたノボリ旗を立てて、ハンドマイクを持ち、1人でしゃべり始めました。最初は誰も反応してくれませんでした。「何だ、こいつは?」と一瞥されるだけでした。当時の千葉県では、選挙期間以外に駅前演説している人はいなかったからです。


  以来、平日は毎朝2~3時間、船橋市内の様々な駅前でマイクを握ることが日課となりました。「駅前留学はNOVA、駅前演説はNODA」と、評されるまでになりました。近年は演説よりも「かわら版」をお配りすることに専念しています。


  船橋市内の駅頭活動は38年めに入りました。今年からは習志野市内の駅にも、ルーキーの気持ちで立つようになりました。お陰様で、ビラを受け取って下さる人数が着実に増えています。


  京成線谷津駅で活動中、ベビーカーを押した若いおかあさんが話しかけてこられました。「私は困窮する一人親家庭で育ち、高校進学を諦めていました。しかし、野田さんたちが高校授業料無償化を導入して下さり、公立高校に進学できました。その後、大学で語学を学び通訳となり、結婚をし子どもを産み、今はとても幸せです。学ぶチャンスを与えていただきありがとうございました」と。


  政治家冥利に尽きる瞬間でした。鼓舞される時もあります。逆に罵倒される時もあります。駅頭はいつも刺激的です。私にとっては民主主義の学びの場です。


  1996(平成8)年10月20日、衆院2期めをめざしていた私は落選しました。開票率99%の時点で210票ほどリードしていました。しかし、有効か無効かを1回で判断できずに残していた疑問票の判定の結果、105票差で逆転負けしました。


  負けた候補者の獲得票数を当選者の獲得票数で割って算出する「惜敗率」は99.9%。全国一でした。比例区に重複立候補していれば復活当選できましたが、私は小選挙区のみで勝負したので落選しました。大敗も惜敗も敗北は敗北。39歳から42歳までの働き盛りの間、厳しい浪人生活を余儀なくされました。


  あとでわかったことですが、疑問票の中に私の名前とともに、「頑張れ」「祈る必勝」「毎朝街頭ご苦労様」「年金問題頑張って下さい」といった、手紙のような投票用紙がたくさんありました。これらは「他事記載」といって無効になってしまうのです。私に対する強い応援の気持ちが裏目に出てしまったのでした。


  一人ひとりの大切さと一票の重みを痛切に思い知りました。以来、「負けず嫌い」というより「負けるのが怖い」ので必死に活動しています。落選経験のある総理経験者は珍しいと思います。


  阪神タイガースは18年ぶりに「アレ」しました。目標を具体的に言わないほうが実現できるようです。私は千葉14区で「アレ」したいと思います。


  

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